Metal Fatigue III

一般オタクの日記帳

世界を自分中心に回せ

どうも、ちたんです。

最近思っていることを書き殴ります。

正直まとまんねえなぁ……って思いながら書いたので、後でがっつり修正したり消したりするかもしれない。

共同体感覚の話

以下の本の話をします。

www.amazon.co.jp

尖ったタイトルだなぁw

この本、初めて読んだのは5,6年前なんだよね。人生で一番病んでいたその頃、ひょんなことから出会ったとあるブログにこの本が紹介されていて知ったのが最初だった

病んでいる時って要は悩んでいる時なので、そういう時にクリティカルな本に出会えると思考回路にかなり影響されるんだよね。

 

これ以降の記載で「この本のここに納得できなかった」って話をするんだけど、前もって言っておくとそれを差し引いてもこの本はマジですごい本だと思う

目的論の話を初めて知った時は唸ったし、全ての悩みは対人関係に帰結するというのは今でも本当にその通りだと思ってる。

アドラー心理学関連の本はこれ含めて3,4冊しか読んでいないけれど、今でも僕の価値観の半分はそれらの本の影響を受けているんじゃないかな。

 

そんな本を、ここ数ヶ月の間に改めて読み返してたんですよ。

その感想が「当時ほど刺さらんなぁ……」っていう。

 

特定の本が刺さりすぎないのはそれだけ自分の思考回路が確立されているということなので、それ自体は良い事だと思うんだよね。

別に本に限らず「論旨を一歩引いた目線で見た上で、受け入れたい箇所は受け入れてそうでない箇所は"でも自分はこう思う"と納得させる」技術はそれなりに重要だと思ってる。

 

でじゃあその中でどこが刺さらなかったのかと言うと、見出しにもある「共同体感覚」の話。

これを簡単に説明しようと思ったけどめっちゃ難しいことに気付いて、ググったらちょうど上記の本から抜粋されている記事があったので載せておきます。

diamond.jp

 

めちゃくちゃざっくり言うと、

他者に関心を持ち、"他者貢献している感"を感じることが最大の幸福ですよ

という主張だと僕は捉えました。

 

これ、どう思う??

僕はぶっちゃけ納得できないんよね。

この本の主張は「自己中心的=悪」という考え方を元に話が進んでいくんだけど、僕は別にそうは思わないんだよね。

 

最も「お前がちゃんとアドラー理解できてないだけだよ」って言われたらそれまでだし多分この本の主張もそうなんだけど、それ言われると何も言えなくなるので一旦その線は無しとして話を進めていこうと思う。

 

 

 

 

 

 

「他人のためを思う」をやめよう

よく「自己犠牲」だったり「他人のためを思って○○しよう」みたいなのが美徳として語られることあるじゃん。

本当にそうかな??僕は別にそれが美徳だとは思わない。

 

例えば人に何かをアドバイスなどする場面で「あなたのためを思って言うけど、○○するべき」なんて言ってるのを想像して欲しい。

まあありそうなシーンだよね。

 

でもこのアドバイスって、言っている側は以下の2つの期待を抱えていると思う。

1つが「あなたのためを思ってのアドバイスをしたのだから、そのアドバイスに従ってほしい」という期待。

もう1つは「私はあなたのためを思ったんだから、逆の立場になった時にあなたも私のためを思ってほしい」という期待。

これってなかなか傲慢じゃないか?と思うんだよね。

 

この辺りの考え方はアドラー心理学の「課題の分離」という考え方に影響を受けている。

結局アドバイスする人に出来ることって「アドバイスする人が持っている価値観に照らし合わせて、"自分の意見"を言うこと」だけなんだよね。

その点では、悪い意味で有名な「それはあなたの感想ですよね」という言葉はある程度正しいわけだ。最もそれを面と向かって人に言うとどうなるかな?というのは別問題だけど

 

自己犠牲についても同じ。よほどのマゾヒストでもない限り、多少なりとも上記の期待を抱えているものなんじゃない?って思う。

 

だから僕はこの善意の押し売りが好きになれない。

フィクションの世界であっても、「自己犠牲=美徳」という前提で語られているストーリーにははっきり言って反吐が出る

アドバイスにしたって「私は○○をしたほうがいいと思う」、と言って欲しいし、そこを踏み越えたらそれは「アドバイス」ではなく「人生の指示厨」なのだ。

 

 

 

 

 

 

自分を中心に置けるのは自分しかいない

上記の「課題の分離」の話に則ると「自分のことを思えるのは自分だけ」なんだよね。

アドバイスしてくる人間も、批判や中傷をしてくる人間も、別にそいつらは自分の人生に責任を持ってはくれない。

他人はあくまで自分とは違う一個体なのだし、自分の理解者じゃない。じゃあ自分のことは誰が理解して思って大事にするのかと言ったらそれは自分しかいないんだよね。

 

文字に起こすと至極当たり前の話なんだけど、最近そんなことすら忘れかけていた気がする。

だからこの書き殴りの記事は自分への戒めとして書いている

 

自分で言うことでは無いんだろうが、僕は多分だいぶお人好しだし人の世話焼くのも頼られるのも好きなんだよね。

でも人に踏み越えさせちゃいけない一線って絶対にある

そんな時、多分僕は明確に「NO」と言わなきゃいけないんだよね。嫌なことは嫌だと言うべきなのだろうし、きっとその「お人好し」が転じて「自分の課題/テリトリーに人を踏み込ませる」ことは、少なくとも僕にとっては「悪」なんだろう

 

そういう意味で、「自己中心的」に生きるのは悪いことだと思えないんだよね。

物事の判断基準の一つとして、「その行動が最終的に自分に得をもたらすのか?」という軸を置くのはむしろやって良いことだと思う。

もういい加減お人好しして後から悔やむのは散々なんだ。いい加減学んでいきたい。

 

 

 

 

 

 

おわりに

こんなことを書こうと思ったきっかけは3,4個くらいあるんだけど、

どれも「もっと嫌なことにはっきり嫌だと言えるようになりたい」に収束するんだよね。

こんな記事で3000文字近くも書かないと嫌なことに対して「嫌だ」の一言が言えないの、我ながらやり方も性格も悪いなぁ……。

きっと意識して直そうとしないと一生こうなんだろうし、人間関係を構築する上でもその一言が言える環境を意識して作っていったほうが良いんだろうなと思う。

 

そんな性格を直すその第一歩としてこの記事を書いてみました。

それこそ自分の性格を直せるのだって自分しかいないのだから、少しずつ直していけたらな~と思っています。

 

 

 

 

 

 

最近病み気味な原因考えてたんだけど、あれだわ。音ゲーしてないからだわ。

普段スマホのカメラロールは音ゲーのリザルト画像でいっぱいなのに、見返したらここ2,3週間ろくに写真を撮っていなくてびっくりした。

残業がヤバめなのもあるけど、そんな時でもゲーセンで体動かすのだけは忘れないようにしたほうがいいね。

 

 

次はきっと明るい記事か頭の悪い記事を書きます。

それでは~